夕食と風呂を済ませた二人は、ベッドにもたれてビールを飲んでいた。
「また隣……なんだな」
ため息交じりに大地がつぶやく。
「……駄目?」
「いやいや、俺、前にも言ったよな。その小動物が餌をねだるような顔はやめろ。お前ずるいぞ」
「だって……この方が落ち着くから……嫌なら離れるけど」
そう言われ、大地が困惑気味に手を上げる。
「分かったよ。好きにしろ」
「やたっ」
笑顔で腕にしがみつく。
「おいこら、そんなことまで許してないぞ」
「……駄目?」
「くっ、こいつ……」
何を言っても勝てそうな気がしない。なんで俺、こんなにこいつに弱いんだ? そう思いながらビールを流し込む。
「明日、何時から仕事なの?」
「明日は昼からのシフトだ。12時から閉店まで」
「じゃあ朝はゆっくり出来るね。でもそうなると、夕飯遅くなるのかな」
「俺のことは気にするな。勝手に食ってろ」
「またそういうこと言う……」
「なんだよ。俺か帰るまでお前も食うな、そう言った方がいいのか」
「そんなこと言ってないでしょ。でもまあ、大地はそれぐらいの方がいいかもね」
「どういうことだ?」
「他人を尊重しすぎてるってことよ」
「いいことじゃないか」
「あのね、物事には限度ってものがあるの。それに尊重するって行為には、自分のこともないがしろにしちゃいけないって縛りがあるんだからね」
「初耳だ」
「当然よ。私が今考えたんだから」
「なんだそりゃ」
「とにかく。帰りは何時ぐらいになるの?」
「21時過ぎかな」
「分かった。それまでに夕飯作っておくから、寄り道せずに帰ってくるのよ」
「なんか俺、お前に主導権握られてないか」
「そんなことないわよ。この家の主は大地、ちゃんと心得てるわよ」
「まあ近い内に死ぬ訳だし、どうでもいいけ
「俺が小学2年の時だった。仕事をクビになったとかで、親父とおふくろが喧嘩を始めた。 俺はいつものように視界に入らないよう、部屋の隅で息を潜めてたんだけどな、おふくろに口で負けそうになった親父が、『何見てるんだお前』って俺に突っかかってきた。『見てません、ごめんなさい』そう言って頭を抱えた瞬間、蹴りが入って吹っ飛ばされた」「ひどい……」「そっからはいつものパターンだった。何をやっても報われない、嫁はキーキーまくしたててくる。勝ち目がなくなった親父が弱い存在、俺をボコボコにする」「小2の息子に八つ当たりって、その人どれだけ子供なのよ」「でもな、虐待の本質はそういうもんだと思う。親父もある意味、社会の閉塞感が生んだ被害者なのかもしれない」「かもしれない、かもしれないんだけど……どんな理不尽な目にあったとしても、自分がどれだけ犠牲になったとしても。子供を守るのが親でしょ?」「まあでも、それは強者の理屈なのかもしれない。この世界、そんな正論だけじゃ生きていけないやつがゴロゴロいるんだ」「納得出来ない……そんなの、納得出来ないよ……」「今俺が話してるのは過去のことだ。今更何を言おうが、どれだけ責めようが何も変わらない。それにまあ、親父らもそれなりの報いを受けた訳だし、海がそこまで怒る必要はないよ」 そう言って海の頭を優しく撫でた。「また始まった。抵抗したら余計に殴られる。あの時の俺はそう思って、ひたすら親父の暴力に耐えた。でもな、その日の親父は少し違ってた。 いつもの親父たちは、これ以上はやばいってラインをちゃんと心得ていた。その筈だったのに、どう見ても自制が効かなくなっていた。 身の危険を感じた俺は、『ごめんなさい、ごめんなさい』って叫びながら逃げようとした。その時腹に入った蹴りが強烈でな、息が出来なくなった。そして吐いた」「それって……かなり危ない状況ってことだよね」「かもな。でもその時の俺は、反吐で怒りが増した親父のことで頭がいっぱいだった。親父は顔を真っ赤にして、『部屋を汚しやがって!』って怒鳴りながら俺に椅子を
「親父とおふくろは逮捕。俺と青空姉〈そらねえ〉は施設に保護された」 震える海を気遣って、大地が紅茶を淹れた。「それからご両親とは」「会ってないな。会いたくもないし、どんな判決が出たのかも知らない」「……そうなんだ」「ひょっとしたら、青空姉〈そらねえ〉は知ってるのかもしれない。でも何も言わないし、俺も聞きたいと思わない」「……」「あの時の怪我が元で、青空姉〈そらねえ〉の右目は光を失った」「え……」 出会った時から気になっていた、青空〈そら〉の眼帯。その意味を知り、海はまた全身が震えるのを感じた。「眼帯で何とか隠せてるけど、傷跡も残ってる。悪いことをしたなって思ったよ」「そんなこと……なんで大地が思わないといけないのよ。大地は青空〈そら〉さんを守ろうとしたんでしょ? 何も悪くないじゃない」「でもな、あの時俺に力があったら。冷静な判断が出来ていたら。違う結果になってたと思う」「それでも、それでもだよ。それに大地、まだ小学2年だったんでしょ? 青空〈そら〉さんだってそんなこと、思ってないに決まってるじゃない」「そうだな、それは確かだ。失明して、顔に傷が残ると分かった時。眼帯をした青空姉〈そらねえ〉、笑って俺に言ったんだ。『どうどう? お姉ちゃん、格好良くない?』って」 その時の青空〈そら〉の様子、それが当たり前のように目に浮かんだ。 ああ、青空〈そら〉さんならきっとそう言うよね。心配させたくなくて。大地に罪を感じて欲しくなくて。 でもきっと、心は泣いていた筈だ。そう思った。「……大地も青空〈そら〉さんも、どうしてそんなに強いのよ……」「それから俺たちは、新しい生活を始めることになった。生まれて初めて、家に帰ってもビクビクしないでよくなった。でもな、強がってたけど。俺が心配しないよう、い
海のことも信じていない。 そう言ってから、部屋の空気が重くなったと思った。「……」 大地は頭を掻き、小さく息を吐いた。「俺たちの話はこんなところだ」「うん……」「でもまあ、聞いたからと言って、青空姉〈そらねえ〉に変な気を使わないでやってくれ。そういうの、青空姉〈そらねえ〉はすぐ分かるから」「……分かった」「浩正〈ひろまさ〉さんにもな」「どういうこと? 今の話に浩正さん、全然出てこなかったけど」「浩正さんは、青空姉〈そらねえ〉の婚約者だ」「そうなんだ……」 確かに二人の距離は、雇い雇われの関係よりずっと親密だった。そう思い納得した。「浩正さんは全部知ってる。でも浩正さんにとって、それは大した問題じゃないんだ。 それは全部過去の話。僕が知りたいのは、これから青空〈そら〉さんがどんな人生を歩みたいのか、それだけなんですって」「……」「どれだけ幸せな過去を持っていても。どれだけ立派な人生を歩んでいても。これから堕ちていく人もたくさんいます。僕にとって過去というのは、その程度のものなんですって笑ってた。 どれだけ辛い過去を背負っていたとしても、それでも前を向き、幸せを求めて進もうとしてる青空〈そら〉さんのことが好きなんですって」 その言葉に海が微笑む。 そして思った。 浩正さんって、裕司〈ゆうじ〉とちょっと似てるかも、と。「青空姉〈そらねえ〉もそんな浩正さんのことが好きで、いずれ結婚したいと思ってる。何より浩正さんの夢を応援したい、一緒に叶えたいと思ってる」「いつかあの場所で、介護施設を立ち上げるって夢?」「ああ。今みたいな協力じゃなく、自分が理想とする施設を立ち上げたいって夢だ」「浩正さんなら出来ると思う」「俺もそう思う。まあ、
「いらっしゃいませ!」 喫茶とまりぎで。 海が元気よく声を上げた。「あらあら海ちゃん、今日も元気いっぱいね」「あはははっ、ありがとうございます濱田さん」「ほんと、海ちゃんが来てから、ここの雰囲気が明るくなったわ」「そんなそんな。褒めても何も出ないですよー」 照れくさそうに笑う海。 そんな彼女に微笑みながら、浩正〈ひろまさ〉が濱田に声をかける。「いらっしゃいませ濱田さん。スタッフを褒めてもらって嬉しい限りなのですが……前は暗かったですか」「ああ浩正くん。ごめんなさいね、そういう意味じゃないのよ。ここはいつ来ても和やかで楽しくて、私たちにとって憩の場所なんだから。海ちゃんが来てくれて、もっともっと楽しい場所になったってことよ」「はははっ、ありがとうございます」「海ちゃんのおかげで青空〈そら〉ちゃんも楽しそうだし。ほんと、いい人が入ってくれてよかったわ」「そんなー。濱田さん、褒めすぎですってばー」「うふふふっ。ほんとのことだから、照れなくても大丈夫よ」 客と海のやり取りをパントリーで眺めながら、誰に話すともなく大地がつぶやいた。「なんだよこの状況……」 * * * 大地と海が過去を打ち明けあったあの時、海は言った。 あんたを幸せにしてみせると。 その言葉にどんな意味が込められているのか、その時の大地には分からなかった。 全てに絶望し、人を信じることを放棄した自分には、この世界で生きる資格がない。 そして自分にとって最も大切な存在、青空〈そら〉の幸せの最たる障害。それが自身であり、一刻も早く取り除きたいと思っていた。そして事実、行動を起こした。 しかしその時、海と出会ってしまった。 海の死を見届けるまで、俺は死なない。 彼女と交わした約束を、大地は後悔していた。 当の海が、まさかここから復活するとは思ってもなかった。 確かに
二人が向かった先は、近くの居酒屋だった。 店に入ると青空〈そら〉は店員に声をかけた。店員はうなずき、奥の個室へと二人を案内した。「ここ、よく来るんですか」「うん、これでも常連。と言うか、他の店だと入れてもらえないことが多いから。飲む時はここって決めてるの」「入れてもらえないって、青空〈そら〉さん、ブラックリストにでも載ってるんですか?」「んな訳ないじゃん、なんでそうなるのよ」 そう笑顔で突っ込む。「見た目の問題だよ。40が目前に迫ってるのに、私は未成年にしか見えない」 ああなるほどと、海は妙に納得してしまった。「はいそこ、納得しないの」「あはははっ……すいません、分かっちゃいましたか」「未成年が煙草吸って酒飲んでる。店の人は分かっていても、他の客が気になって仕方がない。だからここで飲む時は、いつも個室に連れてかれる」「だから今日も個室なんですね。空いてる席が多いのに、なんでだろうって思ってました」「まあそれと、今日は色々話せればと思ってるからね。個室の方が都合いいんだ」 その言葉に、海が肩をピクリとさせた。「それって……どういう意味でしょう」「ああ店員さん、とりあえず生ふたつで」 手馴れた様子でそう店員に告げ、青空〈そら〉がメニューを閉じる。「海ちゃんは嫌いなものとかある?」「いえ、特にはないです」「じゃあ店員さん、いつものようにおまかせで。予算1万ぐらいでよろ」「分かりました」 しばらくして、店員が付け出しと生ビールを持ってきた。「それじゃあ海ちゃん、とりあえずお疲れ」「お、お疲れ様です」 そう言ってジョッキを重ね、二人がビールを口にする。「うまい! この一杯の為に生きてるわー」 青空〈そら〉が満足そうに笑顔を見せる。しかし海は落ち着かない様子で、「あはははっ、そうですね」と愛想笑いを浮かべた。
「初めて海ちゃんを見た時、すぐに分かったよ。ああ、この子は今、絶望の中で生きてるんだなって」 運ばれてきたビールに口をつけ、青空〈そら〉が静かに言った。「でも……確かにそうなんですけど、青空〈そら〉さんたちに比べたらこんなこと、全然大したことじゃないって言うか」「それは誰にも決められることじゃないよ。自分にとって大したことじゃなくても、その人にとっては人生の一大事だってことはいっぱいある。例えばそうだね、学生さん。テストの点が悪くて絶望してる。それが理由で死ぬ人だっている。海ちゃんはどう思う?」「それは……また次に頑張ればいいと思います。それに成績ぐらいで死ぬなんて、大袈裟過ぎると思います」「でもそれはね、私たちにとって過去の話だからなんだ。何年も経ってる今だからこそ、言えることなんだ。一度失敗したぐらいで死ぬだなんて、そんな暇があるならもっと勉強しろよって思っちゃう。勉強以外にも大切なことはあるよ、もっと世界は広いんだよって思っちゃう」「……」「でもその人からすれば、それが全てなんだ。それ以外何も見えなくて、世界から見捨てられたぐらいの絶望なんだ。 人によって悩みは様々。そしてその大きさも違う。自分の物差しだけで判断して、他人の苦しみを一蹴するのは馬鹿のすることだ」「言いたいことは分かりますけど……」「だからね、海ちゃんが私たちに同情する必要はないし、自分の悩みがちっぽけだなんて卑下することもないんだ。海ちゃんが抱えてる問題は、海ちゃんにとっては世界から消えたくなるぐらいの絶望なんだ。それが例え、虫歯が痛いって理由だとしても」「ふふっ、なんでそこで虫歯なんですか」「だって痛いじゃない虫歯。悪化した時に歯医者が休みだったら、絶望以外の何物でもないよ? 生き地獄だよ?」「そうですけど、ふふっ……もっと別の例えがありそうじゃないですか」「あはははっ、確かにね。でもそういうことなんだよ。生きていればいっぱい悩む。困難なこともあるし、絶望だってそこら中に転がってる。だからね、自分がちっぽけだなんて思う必要はないんだよ。
海は全てを話した。 両親を亡くしたこと。裕司〈ゆうじ〉との出会い。 そして裕司を失って、全てに絶望したことを。 時折声が震え、涙がこぼれ落ちた。 青空〈そら〉は黙って海の話を聞いていた。 4本目の煙草を消し終わった頃に、海の話はひと段落ついた。「そっか……」 そうつぶやき、ビールを飲み干す。 結構なペースだ。この小さな体のどこに入っていくんだろう、そう思った。「今私のこと、ちっこいって思ったろ」 この人は本当、なんですぐに分かっちゃうんだろう。海が引きつった笑顔で首を振った。「ちっこい方がいいことだってあるんだよ」「どんな時ですか?」「うっ……海ちゃん、結構辛辣だね」「そんなことないです。ただの好奇心です」「勿論それは……って、あんまりないな」「……ないんですね」「でもほら、浩正〈ひろまさ〉、浩正くん! この体のおかげで、私はあいつをゲット出来た!」 そう言って胸を張り、ドヤ顔をした。「あいつロリコンだからね。未成熟なこの容姿にメロメロなんだよ」「そうなんですか? この前大地と話してるのを聞いたんですけど、巨乳で有名な女優をべた褒めしてましたよ。綺麗な人ですねって」「なっ……海ちゃん、その話詳しく」「あ、それは……あははっ、またの機会に」「絶対だよ」 そう言って5本目の煙草に火をつけた。 海は深呼吸した。 この先の話は、大地のことでもある。 果たして話していいのだろうかと、少し躊躇した。 そんな海に気付いたのか、青空〈そら〉は白い息を吐いて笑った。「庇う必要はないよ。まああいつのことだ、大体のことは察しがついてる」 やっぱりこの人、心が読めるんじゃない? そう思った。「裕司の49日が終わって、私がするべきことは全部終わったんだと思いました。裕司のご両親は優しい方で、こんな私に
「じゃあ、あいつはまだ死ぬ気なんだね」「……はい」 締めの雑炊を食べながら、青空〈そら〉がため息をつく。「海ちゃんを追い出したら、また男を漁りに夜の街に向かう」「漁りにって……色情狂みたいに言わないでくださいよ」「色情狂なら救いがあるけどね。少なくとも快楽が目的なんだから、自分にとってもメリットがある。でも海ちゃんのそれは、ある種の自傷行為でしょ」「……」 大地と同じこと言うんだな、そう思った。「だから海ちゃんを泊めさせたのは理解出来る。あいつがしそうなことだ」 箸を置き、手を合わせる。「ごちそうさまでした。最高でした」 そう言って微笑んだ。「それで海ちゃん、いつまであいつのところにいる予定?」「それは……」「裕司〈ゆうじ〉さんのところに行くって気持ちは、まだ生きてるんだよね」「勿論です。私は裕司のこと、片時も忘れてませんから」「近いうちに行動を起こす、そういうことかな」 そう言われ、言葉に詰まった。 どうしてだろう。ついこの前までは、即答出来たのに。「私は……そんなに度胸のある人間じゃありません。あの日電車に飛び込もうとしたのだって、覚悟に覚悟を重ねて無理矢理動いたんです。あんな覚悟、そうそう出来るものじゃありません。だから……その覚悟が出来るまで、泊まらせてほしいって言ったんです」「大地はなんて?」「構わない、それまで面倒みてやるって。私が死んだのを見届けてから、自分も死ぬって」「それなのに海ちゃん、覚悟を育てるどころか、とまりぎで働くことになって。大地も当てが外れたんじゃない? と言うか、海ちゃんのその心変わり、どういうことなの?」「……大地の過去を聞いて、死にたい理由を聞いて……私、腹が立ったんです」「腹が立った、ね……でもさ、死にたい理由なんて、人それぞれでいいんじゃない?」「そうなんですけど……あの時の大地を見てたら、怒りが抑えられ
その日、青空〈そら〉は繁華街にいた。 大地が高校を卒業してから、何となく家に居辛くなっていた。 どこで働いても長続きしない。華奢な体と眼帯のおかげで、周囲とうまく馴染めなかった。それでも頑張れていたのは、大地がいたからだった。 父親に殴られ、母親に罵倒され。姉である自分だけが頼りで、いつも後をついてきた大地。そんな大地のことが愛おしかった。もし自分が見捨てれば、大地は生きていけないだろう、ずっとそう思っていた。 そう思っていたのに。成長した大地はいつの間にか、自分より社会に順応出来るようになっていた。 頭もよく、家でいつも資格の勉強をしている。そんな弟に対し、青空〈そら〉は強烈な劣等感を持つようになっていった。「青空姉〈そらねえ〉、今までありがとな。これからは俺が青空姉〈そらねえ〉を守るから」 そう言った大地を直視出来なかった。 悪気がないのは分かってる。心からそう思っていることも理解していた。 しかしその時の青空〈そら〉は、お前の役目は終わったんだよ、そう言われたような気がしていた。 事実、あっさりと自分の稼ぎを越えられてしまい、青空〈そら〉の自尊心は音を立てて崩れていった。 私にはもう価値がないのだろうか。そんな自虐的な思考にさいなまれ、いつしか青空〈そら〉は働く意欲をなくしていった。 そんな青空〈そら〉に対し、大地は愚痴のひとつもこぼさなかった。それがまた、青空〈そら〉を苦しめた。 一緒にいると息苦しくなり、大地が帰宅する頃を見計らって、こうして夜の街を徘徊する。そんな日々が続いていた。 その日も適当な場所に座り煙草に火をつけると、家から持ってきた缶ビールを開けて飲みだした。 * * *「お嬢ちゃんお嬢ちゃん、こんな時間に何してるの?」 またか……そう思い顔を上げると、男が二人、自分を見降ろしていた。 茶髪と黒髪。見た感じ、大学生と言ったところか。「何か用?」 容姿に不似合いな大人びた物言いに、
自分の中で、何かが変わろうとしている。 その事実に戸惑い、海は首を振った。「とにかく……私はまだ死なない。矛盾だらけだって分かってる。でも私は、この偶然の出会いを大切にしたい。例えそれが、人生最後に見てる夢だとしても」「……そうか」「だから大地、聞かせてくれる?」「ああ、構わない。じゃあ風呂に入ってから話すか」「うん」 海の中で、様々な葛藤がうごめいているのが分かる。しかしそれは、決して悪いことではないんだと大地は思った。 こうやって人と出会い、人の人生に触れて。 絶望が希望に変わっていくのも悪くない。 お前ならまだやり直せる。 その一助になると言うなら、もうしばらく付き合ってやるよ。そう思った。 * * *「青空姉〈そらねえ〉の高校卒業と同時に、俺たちは施設を出た」「その頃の大地って、まだ中学生よね」「ああ、中二だった。だから働くことも出来ない。青空姉〈そらねえ〉はそんな俺を引き取って、面倒をみてくれた。 と言っても青空姉〈そらねえ〉、あの見てくれだ。正規で雇ってくれるところはなかった。だから色んなバイトを掛け持ちして、生きる為の金を生み出してくれた。そんな青空姉〈そらねえ〉の力になりたくて、俺は青空姉〈そらねえ〉名義でよく内職をやってた。あと家事と」「……」「青空姉〈そらねえ〉の作った料理は、正に殺人兵器だった。あれなら食材をそのまま食べた方がマシだった。とにかくなんだ、命の危険を感じた俺は、必死になって料理を覚えた」「なんか……ふふっ、想像したら笑っちゃうね」「笑いごとじゃねえよ。ああ、俺はもうすぐ死ぬんだな。でもまあ、青空姉〈そらねえ〉に殺されるなら悪くないか、そこまで覚悟を決めたんだからな」「……どんな料理だったのか、見てみたい気はするけど」
「青空姉〈そらねえ〉が結婚……浩正〈ひろまさ〉さん、あんな女相手によく決心したな」 夕飯時。そうつぶやいた大地に、海が間髪入れず突っ込んだ。「ちょっと大地、実の姉にその言い方はないんじゃない?」「え? ああすまん、声に出てたか」「思いっきりね。じゃなくて、出さなきゃいいって問題でもないでしょ」「ははっ、確かにそうだ」「でもよかったじゃない。仲良し姉弟としては、お姉さんの幸せは何よりでしょ」「確かにそうなんだが……でも青空姉〈そらねえ〉、ほんと家事が酷いからな。浩正さんには同情しかないよ」「そんなに?」「ああ、そんなにだ。まず料理が壊滅的だ。卵も割れない」「……マジで?」「マジだ」「でもほら、野菜を切るぐらいなら」「青空姉〈そらねえ〉が包丁握れると思うか?」「あ、そうだったね……ごめん」「謝らなくていいよ。特殊な青空姉〈そらねえ〉に問題があるんだから」「じゃあ、大地が料理得意なのって」「ああ、青空姉〈そらねえ〉と暮らすようになってからだ。でないと二人共餓死してしまうからな、ある意味命がけで覚えたよ」「その辺の話、聞いてみたいって言ったら怒る?」「別に。隠してる訳でもないしな」「じゃあ聞かせてほしい。あと出来れば、浩正さんとの出会いとかも」「そんなの聞いてどうするんだよ。好奇心か?」「それもあるんだけど……あのね、前に大地から話を聞いて。そして青空〈そら〉さんと話して思ったの。本当に私は恵まれてたんだなって」「いいことじゃないか。わざわざ悪い環境に身を置く必要もないだろ」「そうなんだけど、ね……大地たちと出会ったことで、私の中で何かが変わろうとしてるの。それが知りたいって言うか」
青空〈そら〉の結婚宣言に、大地が固まった。「おーい、生きてるかー」 そう言って肩を叩かれ、我に帰る。「……」 青空姉〈そらねえ〉、今なんて言った? 結婚? なんで急に? と言うか、なんで今? そんな思いが脳内を巡り、混乱した。「いやいやいやいや、待て待て待て待て。なんでいきなり、そういう話になってるんだよ」「あははははははっ、大地テンパリすぎ」「笑ってんじゃねーよ。ちゃんと説明しろ。大体浩正〈ひろまさ〉さんの了承はとれてるのかよ」「勿論です。僕はずっと待ってましたからね、嬉しいですよ」 浩正が微笑む。「プロポーズしたのも、随分昔のことですし」「5年くらい前だっけ?」「はははっ、もうそんなになりますか」「と言うか青空姉〈そらねえ〉、一体何があったんだよ。訳分かんねえぞ」「あんただって、さっさと結婚しろって言ってたじゃない」「そうなんだけど……いやいや、俺が聞きたいのはそうじゃなくて」「お姉ちゃん……お嫁にいっちゃ、駄目?」「猫撫で声出してんじゃねーよ。締め落とすぞ」「分かった! 大地、お姉ちゃん取られて寂しいんだ!」「んな訳ねーだろ。歳考えろ」「あははははははっ、可愛いなー、私の弟はー」 青空〈そら〉に抱きしめられ、赤面した大地が慌てて離れる。「とにかくその……本当なんだな」「祝ってくれる?」「勿論だ。まあ、青空姉〈そらねえ〉に嫁が務まるか不安だけどな」「それは大丈夫。浩正くんの家事スキル、無敵だから」「いやいやいやいや、青空姉〈そらねえ〉がしろよ」 そう言って苦笑し、照れくさそうに浩正に頭を下げる。「浩正さん。こんな姉ですけど、どうかよろしくお願いします」「こちらこそ。今日まで青空〈そら〉さんを守ってくれて、ありがとうございまし
「じゃあ、あいつはまだ死ぬ気なんだね」「……はい」 締めの雑炊を食べながら、青空〈そら〉がため息をつく。「海ちゃんを追い出したら、また男を漁りに夜の街に向かう」「漁りにって……色情狂みたいに言わないでくださいよ」「色情狂なら救いがあるけどね。少なくとも快楽が目的なんだから、自分にとってもメリットがある。でも海ちゃんのそれは、ある種の自傷行為でしょ」「……」 大地と同じこと言うんだな、そう思った。「だから海ちゃんを泊めさせたのは理解出来る。あいつがしそうなことだ」 箸を置き、手を合わせる。「ごちそうさまでした。最高でした」 そう言って微笑んだ。「それで海ちゃん、いつまであいつのところにいる予定?」「それは……」「裕司〈ゆうじ〉さんのところに行くって気持ちは、まだ生きてるんだよね」「勿論です。私は裕司のこと、片時も忘れてませんから」「近いうちに行動を起こす、そういうことかな」 そう言われ、言葉に詰まった。 どうしてだろう。ついこの前までは、即答出来たのに。「私は……そんなに度胸のある人間じゃありません。あの日電車に飛び込もうとしたのだって、覚悟に覚悟を重ねて無理矢理動いたんです。あんな覚悟、そうそう出来るものじゃありません。だから……その覚悟が出来るまで、泊まらせてほしいって言ったんです」「大地はなんて?」「構わない、それまで面倒みてやるって。私が死んだのを見届けてから、自分も死ぬって」「それなのに海ちゃん、覚悟を育てるどころか、とまりぎで働くことになって。大地も当てが外れたんじゃない? と言うか、海ちゃんのその心変わり、どういうことなの?」「……大地の過去を聞いて、死にたい理由を聞いて……私、腹が立ったんです」「腹が立った、ね……でもさ、死にたい理由なんて、人それぞれでいいんじゃない?」「そうなんですけど……あの時の大地を見てたら、怒りが抑えられ
海は全てを話した。 両親を亡くしたこと。裕司〈ゆうじ〉との出会い。 そして裕司を失って、全てに絶望したことを。 時折声が震え、涙がこぼれ落ちた。 青空〈そら〉は黙って海の話を聞いていた。 4本目の煙草を消し終わった頃に、海の話はひと段落ついた。「そっか……」 そうつぶやき、ビールを飲み干す。 結構なペースだ。この小さな体のどこに入っていくんだろう、そう思った。「今私のこと、ちっこいって思ったろ」 この人は本当、なんですぐに分かっちゃうんだろう。海が引きつった笑顔で首を振った。「ちっこい方がいいことだってあるんだよ」「どんな時ですか?」「うっ……海ちゃん、結構辛辣だね」「そんなことないです。ただの好奇心です」「勿論それは……って、あんまりないな」「……ないんですね」「でもほら、浩正〈ひろまさ〉、浩正くん! この体のおかげで、私はあいつをゲット出来た!」 そう言って胸を張り、ドヤ顔をした。「あいつロリコンだからね。未成熟なこの容姿にメロメロなんだよ」「そうなんですか? この前大地と話してるのを聞いたんですけど、巨乳で有名な女優をべた褒めしてましたよ。綺麗な人ですねって」「なっ……海ちゃん、その話詳しく」「あ、それは……あははっ、またの機会に」「絶対だよ」 そう言って5本目の煙草に火をつけた。 海は深呼吸した。 この先の話は、大地のことでもある。 果たして話していいのだろうかと、少し躊躇した。 そんな海に気付いたのか、青空〈そら〉は白い息を吐いて笑った。「庇う必要はないよ。まああいつのことだ、大体のことは察しがついてる」 やっぱりこの人、心が読めるんじゃない? そう思った。「裕司の49日が終わって、私がするべきことは全部終わったんだと思いました。裕司のご両親は優しい方で、こんな私に
「初めて海ちゃんを見た時、すぐに分かったよ。ああ、この子は今、絶望の中で生きてるんだなって」 運ばれてきたビールに口をつけ、青空〈そら〉が静かに言った。「でも……確かにそうなんですけど、青空〈そら〉さんたちに比べたらこんなこと、全然大したことじゃないって言うか」「それは誰にも決められることじゃないよ。自分にとって大したことじゃなくても、その人にとっては人生の一大事だってことはいっぱいある。例えばそうだね、学生さん。テストの点が悪くて絶望してる。それが理由で死ぬ人だっている。海ちゃんはどう思う?」「それは……また次に頑張ればいいと思います。それに成績ぐらいで死ぬなんて、大袈裟過ぎると思います」「でもそれはね、私たちにとって過去の話だからなんだ。何年も経ってる今だからこそ、言えることなんだ。一度失敗したぐらいで死ぬだなんて、そんな暇があるならもっと勉強しろよって思っちゃう。勉強以外にも大切なことはあるよ、もっと世界は広いんだよって思っちゃう」「……」「でもその人からすれば、それが全てなんだ。それ以外何も見えなくて、世界から見捨てられたぐらいの絶望なんだ。 人によって悩みは様々。そしてその大きさも違う。自分の物差しだけで判断して、他人の苦しみを一蹴するのは馬鹿のすることだ」「言いたいことは分かりますけど……」「だからね、海ちゃんが私たちに同情する必要はないし、自分の悩みがちっぽけだなんて卑下することもないんだ。海ちゃんが抱えてる問題は、海ちゃんにとっては世界から消えたくなるぐらいの絶望なんだ。それが例え、虫歯が痛いって理由だとしても」「ふふっ、なんでそこで虫歯なんですか」「だって痛いじゃない虫歯。悪化した時に歯医者が休みだったら、絶望以外の何物でもないよ? 生き地獄だよ?」「そうですけど、ふふっ……もっと別の例えがありそうじゃないですか」「あはははっ、確かにね。でもそういうことなんだよ。生きていればいっぱい悩む。困難なこともあるし、絶望だってそこら中に転がってる。だからね、自分がちっぽけだなんて思う必要はないんだよ。
二人が向かった先は、近くの居酒屋だった。 店に入ると青空〈そら〉は店員に声をかけた。店員はうなずき、奥の個室へと二人を案内した。「ここ、よく来るんですか」「うん、これでも常連。と言うか、他の店だと入れてもらえないことが多いから。飲む時はここって決めてるの」「入れてもらえないって、青空〈そら〉さん、ブラックリストにでも載ってるんですか?」「んな訳ないじゃん、なんでそうなるのよ」 そう笑顔で突っ込む。「見た目の問題だよ。40が目前に迫ってるのに、私は未成年にしか見えない」 ああなるほどと、海は妙に納得してしまった。「はいそこ、納得しないの」「あはははっ……すいません、分かっちゃいましたか」「未成年が煙草吸って酒飲んでる。店の人は分かっていても、他の客が気になって仕方がない。だからここで飲む時は、いつも個室に連れてかれる」「だから今日も個室なんですね。空いてる席が多いのに、なんでだろうって思ってました」「まあそれと、今日は色々話せればと思ってるからね。個室の方が都合いいんだ」 その言葉に、海が肩をピクリとさせた。「それって……どういう意味でしょう」「ああ店員さん、とりあえず生ふたつで」 手馴れた様子でそう店員に告げ、青空〈そら〉がメニューを閉じる。「海ちゃんは嫌いなものとかある?」「いえ、特にはないです」「じゃあ店員さん、いつものようにおまかせで。予算1万ぐらいでよろ」「分かりました」 しばらくして、店員が付け出しと生ビールを持ってきた。「それじゃあ海ちゃん、とりあえずお疲れ」「お、お疲れ様です」 そう言ってジョッキを重ね、二人がビールを口にする。「うまい! この一杯の為に生きてるわー」 青空〈そら〉が満足そうに笑顔を見せる。しかし海は落ち着かない様子で、「あはははっ、そうですね」と愛想笑いを浮かべた。
「いらっしゃいませ!」 喫茶とまりぎで。 海が元気よく声を上げた。「あらあら海ちゃん、今日も元気いっぱいね」「あはははっ、ありがとうございます濱田さん」「ほんと、海ちゃんが来てから、ここの雰囲気が明るくなったわ」「そんなそんな。褒めても何も出ないですよー」 照れくさそうに笑う海。 そんな彼女に微笑みながら、浩正〈ひろまさ〉が濱田に声をかける。「いらっしゃいませ濱田さん。スタッフを褒めてもらって嬉しい限りなのですが……前は暗かったですか」「ああ浩正くん。ごめんなさいね、そういう意味じゃないのよ。ここはいつ来ても和やかで楽しくて、私たちにとって憩の場所なんだから。海ちゃんが来てくれて、もっともっと楽しい場所になったってことよ」「はははっ、ありがとうございます」「海ちゃんのおかげで青空〈そら〉ちゃんも楽しそうだし。ほんと、いい人が入ってくれてよかったわ」「そんなー。濱田さん、褒めすぎですってばー」「うふふふっ。ほんとのことだから、照れなくても大丈夫よ」 客と海のやり取りをパントリーで眺めながら、誰に話すともなく大地がつぶやいた。「なんだよこの状況……」 * * * 大地と海が過去を打ち明けあったあの時、海は言った。 あんたを幸せにしてみせると。 その言葉にどんな意味が込められているのか、その時の大地には分からなかった。 全てに絶望し、人を信じることを放棄した自分には、この世界で生きる資格がない。 そして自分にとって最も大切な存在、青空〈そら〉の幸せの最たる障害。それが自身であり、一刻も早く取り除きたいと思っていた。そして事実、行動を起こした。 しかしその時、海と出会ってしまった。 海の死を見届けるまで、俺は死なない。 彼女と交わした約束を、大地は後悔していた。 当の海が、まさかここから復活するとは思ってもなかった。 確かに